
顧客の声が組織に届く前に薄れてしまう──規模が大きくなるほど多くの企業が直面するこの課題に、真正面から向き合っているのが株式会社明治の土師智寿氏。腸内細菌の検査結果をもとに、一人ひとりに合ったパーソナルドリンクを届けるサービス「Inner Garden」を立ち上げ、顧客からの問い合わせに自ら返信し続けるなかで、顧客ニーズの理解を深めています。
研究者として商品開発の現場を歩んできた土師氏が、なぜ今、顧客と直接向き合うD2Cビジネスを選んだのか。データと現場感覚を組み合わせた事業開発の実像、そして「なぜ大企業の研究者がD2Cを選ぶのか」という問いへの答えを聞きました。
「会社の強みを起点に考えられる」―研究者は、なぜ事業開発に向いているのか

―現在のご担当領域とミッションについて教えてください。
土師氏: 私は株式会社明治のイノベーション事業戦略部に所属しており、腸内細菌検査とパーソナルドリンクを組み合わせたサービス「Inner Garden」を担当しています。今年4月からは研究所での兼務も始まり、次の新規事業の検討も並行して進めているところです。
―Inner Gardenを担当するまでのキャリアをお聞かせいただけますか。
土師氏: 入社後は研究所に配属され、飲料全般の商品開発を担当しました。その後、本社の商品企画部に移り、お客様のニーズをもとに商品を改良する企画を6年ほど担当しました。
転機を迎えたのは2021年のことです。社内公募の「アクセラレータープログラム(創発プログラム)」に参加し、新規事業の立ち上げに取り組みました。当時、私はスマートウォッチによる生体データのモニタリングに強い関心があり、「商品そのものを改良しなくても、体験価値を変えることで消費者に選ばれるのではないか」という仮説を持っていたのです。
実際に睡眠スコアの可視化を手がけるスタートアップと組んで「睡眠の質が良くなる商品をセットで売ろう」と検証したところ、商品の購入意向が向上しました。これまで商品の改良のみを行っていた私にとって商品を改良することなく、睡眠スコアを見せることで購入意向が高まったことは大きな衝撃でした。それが新規事業に踏み込む原体験になっています。その後、アクセラレータープログラムを運営する事務局のスタッフを1年経験し、Inner Gardenの担当になりました。
―研究所でのご経験は、新規事業開発においてどのように活きていますか。
土師氏: 商品開発は、技術的な実現可能性を見極めながら、お客様のニーズを深掘りします。新規事業を立ち上げるプロセスにおいては「技術的に成立するのか」という問いと、「お客様にとって意味があるのか」という問いを立てながらプロジェクトを進めていくことが重要です。
現在、イノベーション事業戦略部では3つの新規事業をローンチしており、いずれも研究所経験者が担当しています。技術的な視点を活かすことで、明治が持つ強みを起点に新規事業を立ち上げられるのです。その意味で、研究所でのキャリアが事業開発に役立っていると感じています。そしてその集大成が、腸内細菌という生命科学の知見を直接サービス設計に活かした「Inner Garden」だと言えます。
「どの腸活が自分に合っているかわからない」―顧客の声はどのようにサービス設計に結びついたか

―Inner Gardenはどのようなプロセスを経て開発されたのでしょうか。
土師氏: 「腸活」という言葉自体は以前からありましたし、ヨーグルトなどの乳製品を含めると関連市場は非常に大きく、確かなニーズがあります。ただ、お客様に話を聞いていくと「お腹のことを考えて食事に気を遣っているけれど、自分に合っているかどうかはよくわからない」という声が多かったのです。
この時点で、検査まで求めるニーズが顕在化していたわけではないのですが、「パーソナライズすることで、より適切な価値を届けられる」という考えと、お客様の声が合致する形でサービスの方向性が定まりました。
―数ある検査手法の中で、腸内細菌の検査を選んだ理由を教えてください。
――なぜ「腸内細菌」だったのか
土師氏: 大きく2つの理由があります。1つは、個人差です。遺伝子は人間同士で99.9%一致しますが、腸内細菌は人によって菌の種類や構成が大きく異なります。個人差はあるものの、腸内細菌は約1000種類、40兆個も存在し、重さにすると1~2kgにもなります。つまり、タイプ分けをするという発想と非常に相性が良いのです。
もう1つは、食生活により腸内細菌が変化するという点です。遺伝子は変えることができませんが、腸内細菌は日々の食生活によって変わります。「腸内細菌のバランスを可視化して、生活習慣を見直していく」というサイクルを回せるのが、腸内細菌検査の大きな特徴です。
―サービスの価格設計や提供方法で、こだわったポイントがあれば聞かせてください。
――「検査のハードルを下げる」ための価格・提供設計
土師氏: 重要なテーマは「検査のハードルを下げる」ことでした。腸内細菌の検査自体はこれまでも存在していましたが、検査機関を通じた紙のレポートが届くというものが一般的で、個人のスマートフォンに直接結果を返すサービスはほとんどありませんでした。
また、一般的な腸内細菌検査は全菌種を網羅的に測定するためコストが高くなりがちです。私たちは5タイプの分類に必要な菌だけをピンポイントで測定する手法を採用しています。必要な情報に絞って測定することで、価格を抑えられます。自宅で採便してポストに投函するだけという手軽さも、検査のハードルを下げるための設計です。
Inner Gardenは、技術的な進歩とパートナーである株式会社メタジェンとの協業により、実現したサービスだと思っています。
事業責任者が自ら返信し続ける理由――顧客の声が「翌日の意思決定」に直結する仕組みとは

―明治といえば、スーパーやコンビニでの販売が中心というイメージがあります。Inner Gardenは商流が大きく違うと思いますが、工夫した点があれば聞かせてください。
土師氏:仰る通り、 当社の商流はスーパーやコンビニなどの流通に卸すことが中心です。相手先は法人ですから、月末に一括請求する形でお金が動きます。ところが、D2C(企業が消費者に直接販売する形態)では、お客様から日々入金が発生します。既存のシステムではとても対応できないため、デジタルマーケティングを担う新会社「株式会社Wellnize」を設立し、商流ごと移管しました。
もう一つ大きく異なるのは、意思決定の自由度です。店頭で売れ行きが思わしくなければ、流通側が販売を取りやめる場合があります。たとえ価値のある商品でも、それが十分に伝わる前に販売機会を失うケースもあるのです。
一方でD2Cは、すべての意思決定を自分たちで完結できます。Inner Gardenのパッケージが情報量を抑え、世界観を重視したデザインになっている理由は、商品情報はWeb側で伝えるという前提があるからです。店頭販売を想定していたら、まったく異なる設計になっていたと思います。
―お客様との接点も、既存商品とは大きく異なるのではないでしょうか。
――高単価サービスだからこそ、声の量も質も変わる
土師氏: Inner Gardenは高単価のサービスです。そのためお客様の期待値が高く、質問やフィードバックの量が売上規模に対して相当多くなります。サプリメント薬との飲み合わせに関する質問や、検査結果の読み方など、専門的かつ個別の問い合わせはすべて私に集まり、返信案も私が作成しています。
私は基本的に「発案者が一定のところまでやりきる」というスタンスを重視し、事業が軌道に乗るまでは少人数体制で動いてきました。非効率に見えるかもしれませんが、お客様のニーズの解像度を高めるためには不可欠なプロセスだと考えています。
お客様から毎日届く声が、ダイレクトに商品やサービスの開発に反映される。そのサイクルを機能させるためには、声を受け取るだけでなく、素早く調査・検証できる仕組みが必要です。当社では全社共通の会員基盤「明治ID」の整備が進み、お客様への調査は翌日に完了します。声を集め、検証し、意思決定する──このサイクルが根本から変わりましたね。
AIは「自分の判断基準」を移植するツール──事業家が語るAI活用の本質
―AI活用の面で、どのように取り組まれていますか?
土師氏: まず、広告クリエイティブの制作です。以前は、完成度の高い広告を作り込んで長期間使い続けることができました。ところが現在は、同じクリエイティブへの反応がすぐに鈍くなります。継続的に制作し続けることが求められるため、AIを活用して大量かつ高速にクリエイティブを制作し、反応を見ながら差し替えていくサイクルに移行しました。
もう一つが、社内チェックの仕組みづくりです。健康領域のコンテンツは、表現の適否の判断が難しいケースが多々あります。同じ言葉でも前後の文脈によって判断が変わるため、社内の専門部署が確認することになっています。ただ、これだと確認に時間がかかるため、判断できる知識を身に着け、私自身が判断しています。私が不適切と判断した事例をAIに継続的に学習させ、一次審査を自動化する仕組みを構築しました。AIの判定内容を私が確認する流れを採用することで、確認の負荷を下げつつ判断の精度を高めようとしています。
今後はさらにAIの活用を企画領域も含め、拡大させて行きたいと考えています。
―最後に、AI時代における事業開発において、人が担うべき役割について聞かせてください。
土師氏: プロダクトそのものは、AIの活用によって作りやすくなりました。だからこそ、その手前にある「なぜ、この事業をやるのか」というビジョンの重要性が増していると、私は感じています。
特に社外のパートナーと仕事をしている際に、そう実感しますね。ビジョンに共感することで相手の熱量は上がります。実際に、他社からInner Gardenのプロジェクトに加わってくれた方もいます。意欲ある人たちと一緒に動くことが、事業展開のスピードに直結するのです。
また、Inner Gardenで日々蓄積されている腸内細菌のデータを、今後AIの解析能力と掛け合わせることで、生活習慣を見直すご提案や新しい事業の基盤になり得ると考えています。現在は、研究所への兼務を機に、次の新規事業の検討も始めました。「大きく世の中が変わる時にこそ、チャンスがある」──その思いが、私の事業開発における軸になっています。
「Findy Insights」について
土師氏が体現するような「声を集め、検証し、意思決定する」高速サイクルを、自社の事業開発にも取り入れたいと考えるチームを支援するのが「Findy Insights」です。
「Findy Insights」は、仮説検証・事業開発を加速させるAIエージェントです。AIリサーチマネジメント・AIインサイトマネジメント・AIソリューションマネジメントの3機能を一気通貫で提供し、市場分析から顧客インタビュー分析、解決策の優先度設計までを自動化します。大手通信キャリアや製造業、ベンチャー企業のプロダクト開発部門など幅広い企業に活用されており、分析・資料作成の大幅削減と仮説検証サイクルの高速化を実現しています。

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